あみゅえん格ゲー漂流記

若造格ゲーマーあみゅえんが、格ゲーについて支離滅裂に記すブログである、、ですよ!

最近の格ゲーの話

皆さんこんにちは。格ゲーしてますでしょうか。今回は最近の格ゲーについて思うことをつらつらと書いていきます。先に言っておくと、僕は最近の格ゲーについてはどちらかというと首を傾げる派の意見なので、もしかしたら「さてはアンチだなオメー。」と突っ込まれるかもしれない記事になりそうです。しかし、1若僧の意見として流し見してもらえればいいなと思います。なかなかこういうことをブログ以外で書くこともないですし

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競技性という呪い

現代格ゲーを形作る要素に『競技性』という言葉があると思います。2016年のストリートファイター5の発売。競技性重視というのを売りに発売されたこの作品を皮切りに、数多の格ゲー作品が競技性というものを作品のコンセプトに取り入れてきているように思います。しかし「競技性って何やねん。」と問われたとき、明確な答えを用意できる格ゲーマーは何人いるでしょうか。そこらへんも含めて今一度考えてみたいと思います。

  • ゲームと競技

競技性という言葉が世に出回るようになった理由。これは多くの格ゲーマーが口を揃えて答えるでしょう。

e-sports

エレクトロニックスポーツの略語なんですが、私にはこの言葉は呪いのように聞こえます。e-sportsゲームにおいて、最も重要視されているのは「競技性」という文言です。e-sportsはそもそも、この競技性が認められるゲームで競い合うというものでした。しかし私は改めて問いたい。

ゲームとは競技だったのでしょうか。

僕らにとってゲームとはルールとマナーの世界だったのでしょうか。

「違うだろ」

私はそういいたいのです。ゲームを表現するe-sportsという言葉に、ゲームが歩み寄らなければならないこと自体が私には違和感です。ありのまま、元々あったままの形でいられないならそれはゲームではないのではないでしょうか。

ゲームがe-sportsになるんではなく、e-sportsとよばれる『ゲームであるべき』だと、私は考えています。

 

プロと遊びと趣味と仕事

e-sportsでは、プロプレイヤーが存在します。スポンサーとなる企業や個人と契約し、ゲームをプレイすることを支援してもらっている人をさすのが、現状では一般的ですが、明確な定義はありません。私はこれでも一応、プロが一般的になる前から格闘ゲームというものに触れてきました。なので、昨今の爆発的なプロプレイヤーの増加には、驚くばかりです。昔、大会で名前をみたあの人がプロになったんだ!と驚かされたり、逆に初めて見た人がプロとして名前が挙げられているのを見かけることがあります。この方、プロになってなかったんだ。と思うこともしょっちゅうです。そんな中、改めて格ゲーについて考えたときに、特に気になる点がいくつかあります。

  1. e-sportsゲームとそうじゃないゲームの差
  2. プロを目指すという言葉
  3. プロとアマチュア

1についてですが、これは最近、私自身がプレイするゲームの範囲を広げてさらに実感したことです。今回はこの話題について、格ゲーの1要素である『起き攻め』の観点からみていこうと思います。

競技性の強いゲームの例としてストリートファイター5をあげますが、ストリートファイター5(以降スト5と表記)では、ガードが非常に困難な起き攻めなどはなく、打撃と投げのほぼ50%のじゃんけんを公平にすることで競技性を保とうとしているように思います。(保たれているかどうかは俺に聞かないでください。『いやーまぁ、ねぇ?」以外のご返事はしかねます)

このように、できるだけ読み合いというよりは『じゃんけん』の形にすることで、何もできずに終わるというようなことをなくしたいのだろうと私は思っています。

これはこれでいいと思います。しかし私は思うんです。簡単に言えば『全キャラ同じことをする』ということになると思います。

ゲームというのは元々、時代が流れ、ハード、ソフトの進化、ネットの進化にあわせて、できることを増やしてきたように思います。その中で、競技性というものを保つために『できることを制限する』ゲーム作りは、ゲームの面白さにつながっているのでしょうか。

いぶきのクナイ、ディレイスタンディングがない頃の豪気の百鬼、2000年代のアークゲー大体全部などなど、その強弱に差こそあれ、いろいろな起き攻めが、プレイヤーの勝利への執念とドライアイで搬送されるほどの研究から生み出されてきました。「〇〇式起き攻め(ガー不)』『〇〇式表裏(表裏+中下)』のような、様々なプレイヤーが開発した起き攻めや、セットプレイ・連携がありました。それが今、競技性の名の下に淘汰されているように思います。私はこのような創意工夫をこらした『式』はプレイヤーがまさしく「ゲームを遊んだ」結果の産物だと思います。そのプレイヤーに許された遊びの部分を、e-sportsにあわせるために奪ってしまうのは、わたしはあまりにも悲しいと思います。

そしてなにより、そういった遊びを許したゲームは、e-sportsに指定されることはなく、その指定がない以上、世間の光を浴びづらくなっている。哀しいジレンマがそこにあると思います。

 

2のプロを目指すについても考えていきましょう。

当然ですが数年前、本当にたった数年前まで、プロゲーマーというのは日本には両手で足りるほどしかいませんでした。それが最近では、JeSU(一般社団法人日本eスポーツ連合)の指定するプロに限っても(実際は一般企業からのスポンサーを受けているが、JeSUの指定を受けていないプロもいます)230名にも上ります。

ここで私が思うのが、いったい何を基準に、どこをみてこのプロ指定は行っているのでしょうか。

私は格闘ゲーマーという人種の魅力は、「勝っても何にもならないのに勝ちたがる」姿にあると思っています。プロとは目指すものではない。これは私の持論であり、極論であることは理解していますが、それでも一理念として間違っているとは思っていません。

ところが、最近では私と同年代の人たちが、「プロになりたい」という人が増えてきています。無論悪いことではありません。目指したいもがあってそこに向かって、努力を重ねることは、正しい姿であると思います。しかし、時代の流れがそうさせていると私は思っているのですが、「プロになること」が目標であって、「このキャラの10強になりたい」「全1になりてぇ」といったことを言う人は、少なくなってしまいました。しのぎを削る方向が、ただプロという利権を手に入れることが最終到達地点になってしまうのは、(もちろんそうでない場合もあるかとは思いますが)ただ強くなることを目指す輝きとは異なるものだと、私は感じるのです。

 

3のプロとアマチュアについてですが、これは多少2と絡む部分もあると思います。

私の中で格ゲーマーとは「何かを無条件で追い求める人」であると思っています。しかし、JeSUにしろなんにしろ、重要視するのは大会での成績。そのため、昨今では多くの人が「強いキャラ」を重要視するようになりました。しかし、闘劇北斗の拳部門のような、最強キャラ・トキとユダの死闘のようなドラマは全くと言っていいほど生まれなくなり、大会上位に残るキャラはいつも一定。寂しい限りです。

そんななか、無条件で弱キャラのセットプレイを黙々と開発するいわゆる「職人」の人たちは、プロではないのでしょうか。強さだけが重要視される世界で、削られ、残りかすとなった数少ない「遊び」を見いだそうとする人たちは、プロにはなれないのでしょうか。私はプロというものの選定基準に、大きな違和感を感じるばかりです。

 

格ゲーとe-sports。未来の遊び

私はいろいろと近代格ゲーに思うことを書いてきました。その多くが私の勝手に思ったことで、必ずしも賛同を得るものではないでしょう。しかし、一度でいい。この思いをもしかしたら同じように感じる人がいるかもしれない。そう思って筆を取った次第です。プロになるだけで終わりではないシステムとして、日本の「将棋」のように、プロの中でも格差をもうける、私の案としては段位の導入などがあっても面白いのではないかなどと考えたりもしています。皆様も今一度、今の格ゲーシーンというものを振り返り、皆様自身の考えというものを持ってみるのも、また新しい取り組みとして、面白いかもしれませんよ?

 

あみゅえん